車輪の軸がボロボロで一時はどうしようかと思ったが
なせば成る。周りにあるものでどうにかするのは
離島暮らしの醍醐味であるといえよう。
というか、うばぐるまばかりに注力している場合ではない。
私は絵を描かなければならない。
やることが山積しており気が遠くなってしまうが
一つ一つ形にしてゆくほかない。3段跳び4段跳び
はできないのである。仮にそうしたとしても結局は
やり直したりしてかえって遠回りとなる。
焦らず着実にこなしてゆくことが最大の近道である。
車輪の軸がボロボロで一時はどうしようかと思ったが
なせば成る。周りにあるものでどうにかするのは
離島暮らしの醍醐味であるといえよう。
というか、うばぐるまばかりに注力している場合ではない。
私は絵を描かなければならない。
やることが山積しており気が遠くなってしまうが
一つ一つ形にしてゆくほかない。3段跳び4段跳び
はできないのである。仮にそうしたとしても結局は
やり直したりしてかえって遠回りとなる。
焦らず着実にこなしてゆくことが最大の近道である。
昨日は旧暦3月3日、浜下りであった。数日前から
おばあから、「山崎ィ~、(旧暦の)3月3日は空けとけ
な~。仕事入れるなよ~。」と言われており、
当日までにもう一本のイギンを修理して、時間を合わせて
イノーへ向かったのである。
でなぜ昨日のうちにブログに挙げなかったかというと、帰宅
したのち大漁したティラジャー(小さな巻貝の一種)を茹でて
一つ一つ身を取って洗う作業を夜までかかり、それ以前に
おばあたちの海の収穫物を浜から道路まで運ぶということも
やり、つまりまあその役割のために僕は数日前から押さえられて
いたのだが、要するに力尽きてしまったのである。
しかしながら久しぶりにイノーを歩き、浜ではムーチーやサーター
アンダギーなどを食べ、タコは獲れなかったが(←イギンの出番は
無かった)貝を沢山拾い、良い経験ができたと思う。
で、大半のおばあたちは畑仕事や海歩きのときなどに通称うばぐるま
と呼ばれる(?)カートのようなものを押してあるくのだが、
あるおばあが網いっぱいのティラジャーを載せて進んだら、その重量
でくるまの車輪が壊れてしまい、そのときに、つい、口に出してしまった
のである、もしなんなら直しましょうか?と。
そしたら是非!というか、これはもういい、以前から目をつけて
いるどこそこに打ち捨てられているものがあるから、それをもって
くるから使えるようにしてくれないか、という。
そして夕方お互い落ち着いた頃合いに、ガラガラと音を立てて持ってきた
ぼろぼろのベビーカー。聞けば何年も前から捨てられてあった、というから
おばあはその時から目をつけていたのだろうか・・・。
要するにこれを畑仕様にカスタマイズしてくれ、ということである。
おばあが去ったのち、改めて観察してみると、ところどころビニール
テープや漁業用の紐などで補強というか補修というかされているので、
既に畑用として使用されていたことがわかる。というかこれもよく見たら
車輪が壊れているではないか。
言った手前であるが、えらいものを引き受けてしまったなあ・・・・
今日は、離任される幼・小中学校の先生方が
島を発つ日であった。
港には見送る方々が集り、色とりどりの紙テープが幾筋も伸び、
泣く人、笑う人、踊ったり手を振ったり、
フェリーのスピーカーからは「だんじゅかりゆし」が流れ、
「蛍の光」が流れ、毎年のことながらこのときだけはなにか
こみあげてくるものを感じる。
そして一番心に響くのが、何度も何度も鳴らされる汽笛の音である。
ゆっくりとうなりをあげて島から離れてゆく
フェリーから、何度も、何度も、汽笛の長い音が
繰り返される。
その音は港じゅう、いや島中に響き渡り、門出を祝うもの
なのか、3年間お疲れ様のありがとうなのか、
とにかく、普段出港時と入港時には長音1回、必ず鳴らされる
ものなのだが、このときだけは、別物のように聞こえる
のだ。それはもはや生き物としての声になっているといえる。
その「声」は、言語というものを超えて、単音でもって、
哀別の情だったり門出の祝福であったり、感謝の気持ちで
あったりのすべてを表現しているのだと思う。
只々、心に響くひとつの音。
気持ちを伝えるのは究極的には、言葉ではないのかもしれない。
先日とは一転、北風が吹き荒れている。
旧暦3月はもう目の前であり、これはまさしく
わかれ(別れ)びーさー(寒さ)である。
さて先日おばあがタコを捕った際に、イギン(おばあは
イグンと発音するのでこれは久高での呼び名かおばあ個人
の癖なのか)の柄が折れてしまったとのこと、じゃー次の
大潮までに直しておくから、と預かっていたのだが・・・・
なんともう今日は大潮ではないか!
ということで朝いち修繕作業をしたのである。
イギン(イグン)とは、一本銛の先端、金属の部分が弧を描い
ている漁具のことで、イノーを歩きながらのタコ捕りに使われ、
自分としては非常に興味深い道具の一つである。
おばあとしては、移動の際は杖代わりにもなる。
それがタコを突いて挌闘しているうち長さ1メートルほどの木の
柄と先端部との接合部分が柄ごとボキッと折れてしまった。
タコはどうにかこうにか殺して捕らえてきたとうことだ。
私は、その折れた先端部を持ち帰り、金属の銛の部分と木性の
柄の部分とがどのように結合されているか想像をめぐらしたのだ。
なぜめぐらしたか、って柄の上からビニールテープでぐるぐると
巻かれてあって構造が見えない。じゃあ剥がせばいいじゃないか、
となるのだが、それでは面白くない。
ゆえに私は想像したのである。
たぶん、最もシンプルなやりかただろう。
で頭の中で修繕を試みて、多分、このやりかただろう、
というところに行きついた。
というのを経ての、今朝である。
ぐるぐる巻きのビニールテープを剥がすと・・・・
おおー、ほとんどイメージ通りではないか。
しかし針金の巻き方がほんとうに必要最小限で、
なるほどなあ~・・・と感心してしまったのだ。
それでまあ、造りが分かったので箒の柄なんか
使って、小一時間ばかしでおわらせ、
仕上げに補強のために新たなビニールテープを
ぐるぐる巻いて、届けてきたのである。
おそらくは、造形というものは、扱う人間は多々あれど
突き詰めてゆけば段々と無駄のない一つの「型」に収斂
されてゆくのだと思う。それは機能美とも言えるかもしれない。
少なくとも、いつのころかこのイグンを直すか作った人の
接合のしかたと、私が想像したのとは、ほぼ、おんなじ
であった。
(ほぼ、というのは針金の巻き方が少し違い、
これはその方と私の経験の差が出たといえよう)。
私が昔からある道具に興味を持つのをわかっていただける
だろうか。
材質でいえば、鉄と木、である。
いたってシンプルである。
日が長くなった。
ときおり吹いてくる南風は体にまとわりつくような
湿り気を帯びていて北風の季節の終焉を告げているようである。
集落を歩いているとどこかしらか花の咲く甘い香りが
してきた。知らず知らずに春はそこまでやってきているのだ。
さて、5月に展示をすることになった。昨日話が決まった
ばかりなので、詳細は後日お知らせするとして、現段階で言える
ことは、内容としては前回「未来への羅針盤」の続きのような
番外編のようなものになるだろうということと、規模的にも日数
的にも前回と比較してささやかなものになるであろう、ということのみ。
島で創作をしている以上、内容が島についてのものごとに
なるのは必然、というか、それしかできない。
ともあれ自分としては「制作をしなければならない状況」になってくれて
有難いと思っている。そうでもしないと昔の暮らしを描き起こすという
「ライフワーク」も遅々として進まない。
近況はというと、同じ週に締め切りが3つ重なるなど
のっぴきならない状況であったがようやく落ち着いてきたかと
思われる。1か月などまことに早く過ぎ去ってしまう。1日など
はもういわずもがな、である。
猫対策が功を奏して、作業環境は格段に良くなっている。
さてこれは船が止まっているあいだのできごとであるが、おばあが
大根を届けに来てくれたのだ。
僕はたびたびこの方のお宅に昔の話を聞かせてもらいに
お邪魔していたのだが、あるときどういう話の流れでそうなったか
思い出せないが、昔は大根なんか毎年種を採ってそれを蒔いて
いた、いまはフユー(怠けて)して毎年種を買ってるさー・・・という
話になり、日をおいて、大根の種を採取する絵を描いて持って行ったのだ。
すると、傍にいたおじいの方が、絵を見てこれは昔の大根じゃない。
これはアオクビさー(僕が描いてきたのは現在島の畑で栽培されている
青首大根)、形がもっとこう、とジェスチャー混じりの会話になり、要するに、
昔は島だいこんを作ってた、ということだ。
それで形を修正して、とーとー(そうそう)となったわけだが。
で、島大根の種が手に入らないものかと考えたのだ。以前新聞の地域欄に
「鏡地デークニ復活」の記事を読んだ記憶があるので、まったく無いことは
ないだろう、と思いながら過ごし、本島に行った折、南城市内にある種苗店
に試しに入ってみたところ・・・あれまあ普通に販売されているではないか。
しかも種の生産地は内地(なに県か忘れてしまった)。
種業界はなんだかよくわからん。
というわけでこれを購入、島に戻っておばあ宅に行き、
いつもいろいろお話を聞かせてもらってありがとう、こんなのがあったから
収めてくださいね~、と手渡したのが約1年前の話。あのとき
いたく感激されたのを覚えている。
それが時を経て、あの時の大根ができたよ、さっき引っこ抜いてきた、
と家に持ってきてくれたのだ。
日常の暮らしのやりとりはこういう場に挙げると途端に、その輝きが失せてしまう。
それは僕自身が現在その真っ只中にいるからだろうか。あるいはあまりに
距離が近すぎるからかもしれない。
そんな中にあってこのことはこの場に記してもよいように思えて文章をしたためる
ことにした。この出来事はとても意義深く、示唆に満ちていると思う。
今日は旧の16日、ご先祖様方の正月であった。
旧正月~生年祝いと続き、本日をもって正月もひと段落、といったところである。
余談だが、ニンジンもやはり毎年種を採っていたということだ。これはおばあ自身は
やったことはないが、昔のおばーたちは、そうやって紙に包むなどして保管していた
ということである。
定期船が欠航していた。
昨日の朝のフェリー一往復ののち(高速船は全便欠航)
船はストップし、島は北風がごうごうと吹き荒れるのみ。
本日の最終便は運航するとの放送あり、そんなわけで
ほぼ2日間、文字通り「孤島」と化したのである。
曇天と冷たい北風、ひっそりとした集落。
当たり前のことだが、日帰りの観光客はゼロである(宿泊者は
数名いたようだったが)。
ひっそりとはしているが、島内はふだんと変わらないリズムの
ようで、いつも通り畑に行く人、犬を散歩する人、商店は普通に
開いているし、ただ船が止まって観光客がいない、というだけで、
考えてみたらこれが本来の島の姿なのだろう。
自身はというと、この静けさに乗じて作業環境の整備にいそしんで
いた。といってもこの雰囲気に影響されほぼ休日モードで、朝寝して
昼ごろがらちょこちょこ何かやる、といった程度のものだが。
久しく定位置の軒下での創作をしていない。理由は・・・
我が家にいる猫である。
これらが台の上に登るわ、絵具はいじるわバケツの水に口をつけよう
とするわではっきり言って作業どころではない。
挙句の果てにイーゼルを豪快に倒すわで、これらの対策
ができない限り、外での作業は無理な状況であった。
同時に、アクリル絵の具一辺倒であった自身の絵も色鉛筆中心になって
きて、おのずと室内の机に向かって作業するようになっていたので、そのまま
室内に引っ込んでこんにちまで来たのだが。
しかしながら、お待たせしている依頼の品々や、新たな仕事等に手をつける
ためには、やはりこの「猫問題」を解決せねばならず、遅ればせながらこの2日間
で着手したのだ。
で、考えた(そんなに考えたわけではないが)結果、絵具箱を吊るすことにした。
それから、イーゼルの足元にフックをつけて紐で建物に固定できるような細工も
施し、これで登ってきても倒れることはないだろう。
ついでに言えば吊るす絵具箱は外して、室内のデスク作業時にも使えるのだ。
このときはサイドテーブルに置いて使用する。
なにより、昨年の2度にわたる展示会ののち、精も根も経済的にも
使い果たして燃え尽きていたように思える。そんなかにあって、やらねばならない
ことは遅々として進まず、気持ちは焦るばかりだが体は億劫で踏ん張りがきかずの
状態が続いていた。その億劫さがどれだけのものか、こんにちまで簡単な猫対策も
取り掛かれなかったということだけでも察してもらうことはできると思う。
今日はもうこれでしまいだ。明日からは定期船は通常通りの運航となるだろう。
このところ脳の働きが鈍っていたのは昨年中、
脳をフル回転させていたせいかもしれない。
ほんとうに、私はこのままで大丈夫だろうか、と
思えるほどに働きが鈍っていた。いま、徐々に
回復の兆しが見えてきた。ゆっくりとではあるが、
再び歯車が回転し始めるのを感じている。
フル回転させすぎてきたのと、一方で、人間と
いうものは自分の許容量を超えてしまう物事に
直面すると、一気に思考力が低下してしまうの
だろう。
自分の成そうとしていることは多岐にわたっている
ように解されるけれど、根っこの部分は一つであって、
具現化されるカタチがそれぞれ違うときがある、
というだけのことなのである。
私は一つ事を愚直に続けているにすぎない。
だだその根っこというものが、おそろしく大きく深いため、
時に途方に暮れてしまう。
脳を休める、というのは大事だけどそれ以前に、脳が疲弊
しない回転のさせかた、というのがあると思う。
なにかこう、石炭くべて歯車回すのでなく、永久磁石が永久に
回転し続けるようなもの、といったらよいのか。
まあいずれにせよ休息は大事、立ち止まることもまたしかり。
そしてまた、雲を掴むようなものごとでも掴めない雲はない、と
まずは手を伸ばしてみることも大事なことに思う。
本年は、いつになく良い正月を迎えることができたように思う。
正月三日間も過ぎ、今月3日にトゥシビー祝い(フクンティグンジュと言う方もいる)
が控えているとはいえ、旧の年末からのどことなく落ち着かない感じが無くなり、
まずは日常の時間に戻ったといえよう。
ブログを休んでいる間、まったく何も無かったわけではないが、
出来事はあまりに個人的すぎるためこの場に記すにはいささか抵抗がある。
一方、ブログの記事にしやすい創作活動の面でも、記すべき目立った活動
もしていないのでそれではということで、ブログを一時休止したのである。
とにかく、もし自分が晩年に回想録を記すことがあれば、そこに収められるだろう
幾つもの挿話が折り重なって今日に至っている。
暮らしてゆくということは、つまりそういうことなのかもしれない。
気がつけば今年で久高に来てまる7年。8年目に突入する。
その当時50代だった人たちはやがて還暦を迎えようとし、60代だったひとたちは
70代になり、80代のひとたちは90代を迎えている。
小学生だった島っこは社会人になっている。
祖母は、満90で天国へ行った。
そして僕は今年で40になる。
感傷的になって記しているわけではない。僕はそこに、ある種の感慨を
おぼえるのだ。
人生において、この島に暮らす、ということは1ミリも頭になかった者が
どういうわけかこの島に居続けている。これはもう謎というほかない。
一方で、あと2、3年もすれば、島に来て10年になる。そしたらもういいかな、
という考えがよぎるときもある。現状は、切っても切れないような関係性が、
どんどん深まってゆくばかりなのだが。