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2018-10-05

いましかできないこと

消えかかった灯を前にして、
まがりなりにも表現する手段を
持った人間が、いったいなにを
なすべきか。

ポンポン船の、いわゆる焼き玉エンジンを、
実際に操作して文字通りのエンジン音に
包まれた経験のある人々の前で、もういちど
始動させ、あの弾ける音を鳴り響かせたい。

甍もたかくそびえ立つ、と今でも校歌で
歌われる戦前の赤瓦の校舎を、図面に起こして
ある。校舎の半分が写されている写真を
もとに、実際にこの学校に通い、元大工であった
方に造りや間取りを、「思い出してもらった」
のである。
その流れで校舎の後ろに立つ漁業組合の建物でも
あり共同売店でもあり、銭湯(のようなもの)でも
あった一棟も、これもまた図面に起こしている。
あとは模型作りに着手するばかりで、はや2年
が経過している。

ハリガーユーハーという行事が
旧盆の最後の日に行われていた。
和風に言えば無縁仏を祓うもので、
現在はおこなわれていない。
神人の方々が、ほーいほーいとの掛け声
とともに両手に持ったススキの葉で
悪いものを追い払ってゆく。
おばあは子供の頃、屋号ハトゥーフクジの
豪勢な石垣の角で自分らも祓ってもらおうと
わくわくしながら待っていたそうな。
この日は左ないの縄とハナピグーグーの
葉をあわせたものを(魔除けのゲーンのような
意味合いで)、屋敷の、石垣のあちこちに置いた
ということだ。
そのモノの名称はなにかと聞くと、ピジャイ(左)
ナー(縄)、で通るよ、とのこと。
今後やるべきはその方言名の植物の和名を
突き止めることと、その、ピジャイナーそのものを
実際に作ることだ。

先の大戦で失われてしまった模様のある神衣装、
その模様をなんとか復元できないかとすこしずつ、
若かりしころの記憶を辿っている。

旧フェリーは個人的な思い入れがあってのことも
あるが、大きな構想があって、
まず、初代定期船の新宝丸とそれと同じくして新琉丸
を中心にクリ船、サバニ、マーラン船、進貢船も
同じ縮尺で精密な模型を作り一堂に並べてみたい。
進貢船は・・・乗ったことのある人は現在いるはずも
ないのだが、かつて島の男性たちはすべてこの
船の乗組員であり、のちに船頭も輩出しており、
歴史的事実であるとともにオマージュでもある。

イラブーを捕るための、特殊な道具と実際に使う
漁場はどこであったか。

八重山での久高人の活躍ぶり、
あるいは奄美大島、トカラ列島、
台湾、南洋パラオ・・・

資料の購入のための試行錯誤。

等々、一つ一つ上げゆけば紙面がいくつあっても
足りない。

要するに、かつてこの島の人間が、どのように生まれ、
何を食べ、どんなものを身に着け、どんな造りの
家に住み、どのように成長し、あるいは結婚をし子孫を残し、
年老いて去っていったのか、そのことがらのすべてを
あまさずに、
目に見えて触れられるような形で現出せしめたい。

この先、5年10年15年かけて作り上げ民俗資料館なる
ものを設立する、それは、可能だろう。
それは是非とも実現したい物事である、が、いちばんの核は、

当時を生きた人々のまえにそれらを現出させることである

ということだ。

そういう意味において、これは芸術である。
民俗学的にどうかとか、あるいは文化人類学的に
どうとかは、副産物であるといえる。それは
それで大事なことであり大変に社会的意義の
あることである。蛇足ながらここでいう芸術との
位置関係においてそう言っているのであって
決して上位下位を言っているわけではない。

その、芸術活動を続けてゆくのには
もはや一人の力では及ばないところ
まで来てしまっている。

旧フェリーの船体は、アルミと鉄でできている。
そしてアルミの部分と鉄の部分はハイテン鋼と
いう特殊素材でつながれている。
板金の専門書も買った。しかし、他でやってもらえる
ならば、やってもらいたい。

民具を復元したい。本島に目を向ければ
竹細工は、できる人が沢山いる。マーラン船を
作る船大工だって、居る。
模様は、どうやらシャリンバイで染めて作った
ようだ。染ができる人も本島に目を向ければ・・・。

同じ目線で共感してもらえる同士仲間と、
そうした方々に依頼できるだけの潤沢な資金。

私にはそれが必要だ。

私は、縄もなえる。草鞋も作れる。
校舎の模型もやろうと思えば出来る。
が、それは他のひとでも出来る。
そう考えて、私にしかできないこと
とはなんぞや、と考えたがそれは

お年寄りがたの話を聞くこと。

それに尽きる。これだけは、
住んでる者でなければ出来ない
なにごとかがある。
であるから、自分は、この
壮大な構想のなかにあって、
ときには資料や写真や、現物
を交えて話を聞いて、まとめる。
これに徹したい。
そして、絵を描くこと。
言い忘れていた。

当時を知る人に、当時のものを
持って行ったとき、その人の目が
輝くんだ。真の芸術である。
願わくば同士仲間でもって、その輝きを、共有したい。

そしてその瞳の輝きはすなわち、即、文化の
継承となるのです。

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