2017-02-01
暮らしてゆくということ
本年は、いつになく良い正月を迎えることができたように思う。
正月三日間も過ぎ、今月3日にトゥシビー祝い(フクンティグンジュと言う方もいる)
が控えているとはいえ、旧の年末からのどことなく落ち着かない感じが無くなり、
まずは日常の時間に戻ったといえよう。
ブログを休んでいる間、まったく何も無かったわけではないが、
出来事はあまりに個人的すぎるためこの場に記すにはいささか抵抗がある。
一方、ブログの記事にしやすい創作活動の面でも、記すべき目立った活動
もしていないのでそれではということで、ブログを一時休止したのである。
とにかく、もし自分が晩年に回想録を記すことがあれば、そこに収められるだろう
幾つもの挿話が折り重なって今日に至っている。
暮らしてゆくということは、つまりそういうことなのかもしれない。
気がつけば今年で久高に来てまる7年。8年目に突入する。
その当時50代だった人たちはやがて還暦を迎えようとし、60代だったひとたちは
70代になり、80代のひとたちは90代を迎えている。
小学生だった島っこは社会人になっている。
祖母は、満90で天国へ行った。
そして僕は今年で40になる。
感傷的になって記しているわけではない。僕はそこに、ある種の感慨を
おぼえるのだ。
人生において、この島に暮らす、ということは1ミリも頭になかった者が
どういうわけかこの島に居続けている。これはもう謎というほかない。
一方で、あと2、3年もすれば、島に来て10年になる。そしたらもういいかな、
という考えがよぎるときもある。現状は、切っても切れないような関係性が、
どんどん深まってゆくばかりなのだが。
関連記事