さてはて、前回のブログからはや一カ月以上が経過してしまいました。
というのも、こんにちまで、クラウド・ファンディング(ご存じの方もいらっしゃる
かと思いますが、ご存じでない方はこちらを参照ください。→ https://readyfor.jp/)
という制度に申し込んで、そのプロジェクトの準備にいそしんでいました。
僕は、2年ほど前から島のおじいおばあ達に、島の昔の暮らしの聞き取りをして、
それらを絵に起こしてゆく、という作業を続けています。
だだこういった活動は全く収入が無いので、仕事をこなしながら、その合間合間に
行っていました。しかし、時が過ぎるのは早い。聞き取りをする相手方も、
80代後半~90代前半に差し掛かってきました。
これまでの間に、本島の介護施設や病院に行ってしまった方々、天に召された方々が
いました。そのたびに僕は焦燥にかられました。
このままのペースでは間に合わない・・・・しかしこればかりやっていたら
僕は干上がってしまう・・・・。
いろいろ手立てを考えた末、このような仕組みが存在するということを知り、
これはもう、広くあまねく一般の方々にご支援を募ろう、と決意しました。
折しも一方、来沖からお付き合いいただいている桜坂劇場(那覇市)にて、担当の方から
展示会をしませんかとの提案があり、展示会のメインテーマを、「島の昔の暮らし」に
据えることにしました。
ただ、那覇で展示するだけでは、当の、お話しを聞かせてくれているおじいおばあ達の
目に触れてもらうことはできないので、その後凱旋して、島の公民館でも展示会を開く
ことにしました。そしてもう一歩進んで、
最終的には、島の小中学校に作品を寄贈する運びとなりました。
詳しい内容は下記URLに記されています。こちらのブログでも随時、進捗状況を発信していきますが、
まずは、ご興味のある方は、ぜひ目を通していただけたら、と思います。
https://readyfor.jp/projects/yamazakinorikazu
広くあまねく世間の皆さま、どうかこのプロジェクトの成功に向けて、
ご支援をいただけたら幸いです。
戦前の灯台の図。
写真には残っていない、おじいおばあたちの想い出のなかにある世界を、
絵で再現することができるとの確信を得るきっかけとなりました。
すべてはここから始まった、といっても過言ではありません。
これは水彩とパステルで描かれています。
展示作品はカンバスにアクリルで臨む予定です。
ご参考までに。
木工や大工の真似事のようなことを時々やるが、
先日ある方からの依頼で、キッチンに置く棚を制作した。
名付けて、「太陽のスパイスラック」。
僕は絵を描くのが本業であって、絵を描くということはすなわち
絵を描かされる、ということであるのだが、畑違いとも思える
棚作りもまた同じことで、これも作らされるという感覚で作るのである。
そういう境地では自我というものが全く存在しないのであるが、
今回のスパイスラックの制作を通して、僕は、無我の境地で
あるなかにあっても、一つの存在をはっきりと認識したのだ。
その存在というのはすなわち、愛、である。
毎日キッチンを使う依頼主にとって、このスパイスラックが、
幸せな空間を生み出す構成要素の一つとなればそれは
僕にとっても幸せなことである。
生きていれば時に雨風が吹くときもあるだろう。
雨風に吹かれ自分の中にある振り子が振れたとしても、
中心軸に愛があれば、本来のあるべき姿を
見失うことはないんじゃないかと思う。
これまでも、無意識に愛のこもったものを生み出して
きていたかもしれないが、意識の上で、はっきりと
輪郭をもって認識したのは、今回が初めてではないかと思う。
そしてまた、このような発見が本来なりわいとしている画業からではなく、
片手間の棚作りから得られたのは、なかなかに興味深い事象でもある。
久高に来た当初は、浜辺でテントを張って暮らしていた。
だからといってべつに自由気ままな旅をしていたわけではない。
沖縄本島で暮らしていたのだが、一身上の都合で住む場所を失っただけである。
ある日、テントの傍らに三脚を立て、さえぎるものも何もない真夏の太陽の下、
一心に絵を描いていると、一人の男性が、私の様子を見にやってきた。
本島で会社を経営されているというその方は、私を見るなり、
ひとこと、こうつぶやいた。
「優雅だねえ・・・・。」
住むところがなくなって、車もなにも手放して、着の身着のままの姿。
そして3か月後に控えた展示会にすべてを賭けなければならない
状況であった私は、つい、その言葉に噛みついてしまった。
私は両の手を広げ、
「これのどこが優雅だというんですか!」と強い口調で問い返した。
するとその方は、微塵も動じることなく、静かな口調で僕にこう答えた。
「優雅だよ。」
そして少しの間をおいてから、私がきょとんとしているのを察知したのだろう、
噛んで含めるように、改めてこう言ったのだ。
「自然の流れにそって生きること、すまわち優雅である。
そういう意味において君は優雅だ。」
そんな邂逅のあった後も、
私は毎日毎日、この浜辺から、日中行き来する定期船を眺めていた。
なかでもフェリーは私をこの島に運んだ特別な存在だ。
朝9時便の汽笛と
夕方6時、最終便が戻ってきた際の汽笛は、もはや
私自身の始業と終業の合図となりつつある。
べた凪のときは悠々と、うねりがあれば船体もうねり、
波が立てば舳先を上下させながら前進する
その様を見続けているうちに、私の中にこんな言葉がうかんだのだ。
「フェリーとは、なんと優雅な乗り物なんだろう・・・。」
そして私は描き終えたはずのキャンバスの左下に、その雄姿を描き入れたのである。
私は現在、沖縄本島の離島である、久高島というところに住んでいる。
何故、ここに住めているのかいまだによくわからない。
よくわからないが、5年も6年も、私はこの島に居続けている。
自分でもよくわからないのだから、ここを文章化するのはひじょうに難しい。
とにかく私はこの島で、絵を描き続けている。
気が付けば6年目に突入している。
そのおかげか、最近私は描く世界がいままでと少し変わってきており、
自分でも未知の世界を進んでいる感覚である。
これまでも未知の世界を切り開いてきたことはあっが、
なんというか、この感覚は初めてである。別格である。
そうではあるが、私は恐れずにこの世界に飛び込んでいこうと思う。
進化ができなくなったら、筆を置くときだ、と思っている。向上心が
なくなったら終わりである。
未知の世界に到達できたのは、これまでの自己研鑽の結果でもあろう。
しかし結局のところ、私は描かされている。
この感覚をどのように説明すればよいか考えてしまうが、要するに、
自ら動いているのと、大いなるものに動かされているのとが
同時に起こっている、あるいはそれらは表裏一体であるとでも言おうか。
だから私は今、未知の世界に立っているとも言えるし、立たされている、
とも言える状況にある。いずれにせよ、どちらも正しい表現であるし、
そんなことはどちらでもよい。
私はこの未知なる世界を進んで行くことに対して、一片の迷いもないのである。
拝啓、南の島より、これから皆様に、
不定期ではありますが、ささやかながらにお便りを、
お届けしようと思います。
創作活動とは、宛名のない手紙を送り続ける
ことだ、とあるとき言われたことがあります。
僕は当時、
それを聞いて、ひどく寂しい気持ちになりました。
全身にひろがる徒労感。
終わりの見えない道のりに、
気が遠くなりました。
あれから月日は流れ流れて僕はいま、
この島に両の足をつけ、絵をえがくという
作業を続けています。
僕はかつて、筆を持てども絵が描けない日々を送っていました。
それがどういうわけか、今は図案は次々浮かび、
図案を具現化するために黙々と作業を進めるているだげであり、
産みの苦しみというものは皆無です。
何故そこに至ったのかは今後の考察を待たねばなりませんが、
ひとつ言えることは、
絵を「描く」、から
「描かされる」というスタンスになった、ということです。
ある時点から、僕はそうなった。
それからというもの、いかに「描かされる」か、に
重きを置いてきました。
絵というのは、描くものではないのです。
人智を超えた大いなる意思の力が
僕の体を活用して、世に現したいものを具現化している・・・・
それは終わりも始まりもない永遠の旅路。
今、僕は、このようにして創作活動を続けています。
何故だかふいに、あのときの言葉が蘇る。
僕は、以前のような孤独感や徒労感に苛まれているだろうか?
自分で自分に問うてみようと、会いに行ったのです。
まばゆい南国の空の下。
活き活きと、無心に作業している
自分自身が、立っていました。
後ろ姿が静かに、問いかけに
答えていました。
僕はそれを見て、体のなかから喜びが
静かに湧いてくるのを感じました。
もはや寂しさも徒労感も抱くこと無く、
黙々と描き続けている自分がそこにいたのです。