麦を刈り取ってから干す際に、扇状に広げていたとのことです。
描かれた絵に登場する女性たちには、バサージン(芭蕉布の着物)
を身に纏ってもらっているので、時代的には、いまいるおばぁたちの、
おかあさん、おばあさんの時代になるのかもしれません。
いずれにしましても、人物と麦を描くだけで思った以上に時間が
かかってしまいました。サイズはA2。
制作日数は約一週間、といったところでしょうか。
麦を刈り取ってから干す際に、扇状に広げていたとのことです。
描かれた絵に登場する女性たちには、バサージン(芭蕉布の着物)
を身に纏ってもらっているので、時代的には、いまいるおばぁたちの、
おかあさん、おばあさんの時代になるのかもしれません。
いずれにしましても、人物と麦を描くだけで思った以上に時間が
かかってしまいました。サイズはA2。
制作日数は約一週間、といったところでしょうか。
現在、つぎの作品を制作中。
夕方は大豆が芽を出したのでそれを
スケッチしたり、種苗店から注文の品が届いたとの
連絡が入ったりで、どうにか猫の額ほどの用地を
庭の中に確保、開墾をしたり、その勢いで、
いつまでも花が咲かずほったらかしのスイレンを
植え替えたり、蓮の種を蒔いたり(水に沈める)
していました。
そのなかで今更ながら、芽を出した大豆は、
一体、何大豆なんだろう・・・・?
と思ったのでした。今度種苗店に行ったら
聞いてみよう。
沖縄には在来の大豆というのが存在しまして、
これまで調べたのをまとめてみると、
オーヒグー
タカアンダー
ウフチジャー(ウフチジャーマーミ)
下大豆 等々、あるようです。
おばあが昔、那覇の東町市場で扱っていた中で
ヒグダイズと言っていましたが、
それはオーヒグーのことですか?と問うと、
ヒグダイズとオーヒグーは別とのことでした。
追伸、きてぃちゃんの絵が好評だったらしく、次の依頼がきました。
お題は「マイメロリ」。うーん、どういうものかまったくわかりません・・・・。
今日は朝日をスケッチするために北の岬へ向かった。
日中はパネルに画布を張る作業に終始する。
庭に育つ麦は、もう少ししたら収穫できるだろう。
先日蒔いた高黍は、おとといの雨で芽を出した。
片隅に蒔いた大豆も遠からず芽を出すだろう。
もちきびと粟(うるち種を探すのは難しい・・・)の種を、
本島の種苗店から取り寄せ中。
蒔き時期は遅れてしまったが遅きに失することは
ない、と思う。まずはやってみる。
庭は、もはや実験場と化している。
夕方は水やりと、アダンの繊維で縄をなう練習。
軒下には採ってきたアダンの根っこや鎌、
アダンを裂いたもの、失敗した縄などが広がる。
部屋の机には、石垣島でいただいてきた、「草鞋」が
置かれている。本棚の上には「バラす」用のクバ笠が
出番を待っている。
博物館の収蔵品を元に作った収穫道具の
レプリカを持って2、3聞き歩いたが、この
島では使われていなかったとのこと。
実際に戦前に、もちきびを栽培されていた
方々がそう言ってるのだから、間違いない。
聞くところによると、今年は(島は)鳩による麦の被害が
著しいようだが、僕の庭には鳩の姿がない。
もしかしたら猫がいるからかもしれない。
しかしそれも油断はできぬ。
アダンの根っこを採りに行きながら、ミリファイといって、
ヤマ(内地で言う森とか林)の中に岩があってその窪みに
よく水が溜まり、畑仕事をしながらそこで喉を潤した、
という場所があるのだが、ふと思い出して、
そこを探したりする。
現在は土捨て場になってるので、埋もれて無いかも
しれない。今度時間を作ってちゃんと探しに行こう。
ここ数日はこのように過ごしています。
昨日の夕方、スケッチを元に
イララを作ってみました。
適当な木に適当な鉄片を差し込む。レプリカのため歯は立てて
ません。民具の本の説明書きを参考に手に持ち、もちきびは無い
ので、そのへんの雑草で試してみる。
木の薄くした部分は、刈り取ったもちきびを束ねる際に、口にくわえ
るのだそうだ。
うーむ。なんといいますか、「機能美」を感じます。
制作のほうも進めています。こちらは改めてブログに
アップしますので(本日は画像の編集がうまくいかず)。
本日は所用で本島に出てきました。
桜坂劇場にてフライヤーについての
打ち合わせ後、時間ができたので
思い立って県立博物館に行ってきました。
以前からその道具がここに収蔵されているのは
把握していたのですが、急遽、見に、というか
描き写しに赴いたのです。
それはイララ(イナナ)といって、もちきびの穂を
摘み取るための道具で民具の本を開けば出て
くるのですが、波照間島で使われていたようです。
博物館の表示にもやはり「1969年、波照間島
より収蔵」とありました。
往時は日常的に使用していたであろうそれは、
いまでは県立の博物館の、しかもガラスケース
の中に展示されており、そんなわけでまあ
ガラス越しに、大体の寸法や作りを観察、
描き写してきたのであります。
なぜこんなことをしているのかというと、
久高島でも昔はもちきび(しまではチミと言っていた。)が
作られていたとのこと、可能性は薄いですが久高でも
もしやこの道具が使われていたのではないか??
という確認をしたいのです。
これが使われたか普通の鎌だったのかで絵が変わって
きますので。
夕方帰ってくると、島の方に突然呼ばれたので行ってみると
セメントを2体いただいたので、思わぬところで漆喰シーサー
の材料が手に入りました。ありがたいです。
と、いいますか僕は時々シーサー作りもしています。
漆喰シーサーは竹富島にある老舗、高那旅館の運営する
「たかにゃ」というお土産屋さんで扱っていただいております。
こちらもぜひ、宜しくお願い致します。
時間のかかるものから先に手を付けてゆこうと、
一番大きいサイズのカンバスを設置しました。
当面は、他の制作の合間に進めてゆく予定です。
こればっかりやるわけにはいきませんので。
ちょっとここから先は、複数のものを
同時進行的に進めてゆくことになると思います。
おそらく9月まではそんな状態が続くでしょう。
たぶん、この作品は、出来上がるのは9月
入ってからになるでしょう。
構図はすでに頭の中にあるのですが、
時間の読めないシロモノであります・・・・・・。
高校のとき英語の講師をされていた方が、
勉強するときの心得として、一つの教科に偏ることなきよう、
ある教科の勉強に興がのっていてもそればかりせず、
時間がきたら他の教科の勉強に切り替えて、全体的に、
バランスよく進めなさい。といった趣旨のことを授業中に
訥々と語っていたのがなぜだかいま思い出されます。
今日は石垣島で得てきた資料を携え、久々にある方の元へ
話を聞きに行ってきました。終わって時計を見たら
一時間ちかく経過していました。この時間を過ごす
ために、はるばる石垣・八重山まで行った意味は
大きい。
もう一人二人、当時(戦前)の話を聞くことができるかも
しれません。
ということで頭の中はカツオ漁・鰹節工場のことでいっぱい
でしたが、大きい絵から早めに取りかかろう、とパネルに
画布を取り付ける準備をしたり(これはまた全く違うテーマ)、
とにかく、気を付けて
複数を同時進行的にやらねばいけないと思っているところです。
石垣島、竹富島、波照間島を
巡ってきました。
自身の創作活動について、現地での様々な方の
ご協力をいただくことができ、充分すぎるほどの
成果を得ることができた、と思っています。
石垣島においては、かつて鰹節工場が並んだという
地区も、いまや全くと言ってよいほど跡形もなくコンビニや
某有名ボクシング選手の記念館等が立ち並ぶのみ
であるが(かろうじて往時をしのばせる屋敷の石垣が残る)、
ここらへん一帯がそうだったんだよーと案内されると
されないのとでは、創作の入り方が全然違うのを感じました。
それだけでも現地に行った意味は大いにあった、と言えます。
その他、石垣市立図書館でもどうにか資料を見つけ複写をし、
久高島に戻っておじいたちに話を聞くには、僕にとっては
充分ないろいろなものを得ることができた、と感じています。
出来上がるであろうそれは、往年の石垣島のいち風景となるのですが
これは一方で久高の絵でもあるのです。
そこに建つ大きな大きな鰹節工場は、久高出身の
方が営んでいたのであり、現地で操業していたカツオ船も、
久高から出航してきたものであり、乗組員もいわずもがな、
かつて行われた「八重山旅」と称するもののほんの一ページ
ではありますが、描くことになるのですから。
とにかく、どの島においても、今後も足を運ぶことになる
と感じていますが、まずは、久高島に取り組んでゆこうと
考えています。