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2016-03-15 | Blog

現地に行く

島の暮らしを掘り下げてゆくにつれ、
やはり、久高島と八重山との関係性は省くことのできない
重要な題材である、との思いが強くなっていました。

八重山旅、と称して、いわゆるカツオ漁をするために
石垣島へ渡ったのでした。戦前の話です。

この八重山旅を実際に経験されて、今もなお
ご健在の方は、私が知る限りわずか2名。

ちなみに奄美大島方面へ漁に行くことを
「大島旅」と称するようですが、こちらは八重山旅よりも
時代が古く、経験者は残っていない。

いずれにしましても、まずは八重山におけるカツオ漁の
何たるかを知る必要性を感じています。
幸いなことに、現地で重要な方々にお会いする機会を
いただくことができました。

明日から石垣島へ行ってきます。

そういったことで、一週間ほどはPCの無い環境(PCは
持って行かない)になりますので、急遽ブログで活動報告
としてアップ致しました。

話は変わりまして、沖縄に詳しい方はご存知と思いますが、
沖縄には「共同売店」というものがあって、戦前の久高島にも
久高共同売店なるものがあったとのことです。
もともとは漁業組合であった家屋とのこと、であれば、その
建物は一部写真に残っており(昭和16、7年頃か)、
もしかしたら復元可能かもしれない・・・・との思いがむくむくと
わいてきてもいます。

掘り下げればまだまだ、あるのです。

活動の本質のそもそもが、期限を設けて成すシロモノでは
ないのだと感じています。そういったなかでも、展示会では
できるがぎりやってゆこう、と考えています。

2016-03-11 | Blog

最年少の依頼者

やぁ~まちゃぁ~ん!
と聞きなれない声がするので出てみると
島の幼稚園生が二人立っている。

やまちゃん、きてぃちゃんかいて~!

お、お、おぉ~わかった~描いたら持って
くるね~~!

夕方の一コマでした。

2016-03-10 | Blog

近況

このところ締め切りのある依頼の仕事に
取りかかっており家(もしくは敷地内)から
ほとんど出ない日々が続いています。

あまりにも出なさすぎるので、休憩のときには
商店に買い物に行くことにしています。
でないと、郵便の配達でもない限り、
全く人と接することがない・・・・・。

僕は島の戦前の暮らしを絵に起こそうとしていますが、
そのなかで、番外編、といいますか、番外とも言えない
関係の深い場所も絵にしようと考えています。

一つは八重山、石垣。
これは、戦前のカツオ漁の様子を絵に描き起こしたい思い
があります。と、いうことで仕事が落ち着いたら僕は
八重山に行ってきます。

もう一つは、那覇の東町市場の様子。

こちらは、かつて戦前の東町市場近辺の商店で働いていた
ことがある方がおりまして、いわばその方のために描くようなものです。

「ようなものです」、というよりその方に見せたいがために描こうと
しています。

まったくもって雲をつかむような物事ですが、ようやく図案が浮かび
上がり、内心胸を撫で下ろしているところです。

これがために、ときに公文書館に足を運んだり、那覇の博物館に
足を運んだり、別に、豆腐を正宗で切るようなことをしているわけでは
ないのですが、必要にかられて、そんなことをしていました。

そんなこんなと、思い出話が、ようやくミックスされて一つの図案に
醸成されつつあります。

看板も掲げていないちいさな商店の姿を、絵にしようという行いは、
島の風景ではないですが、それはそれで、大変意味のあること
だと思うのです。

2016-03-09 | Blog

コーラルウェイ掲載のお知らせ

JTA機内誌、コーラルウェイにて見開きページの
イラストを担当させていただきました。

そろそろJTA機内や、県内書店・コンビニでも並んでいる
ことと思われるので、告知いたしました。

2万年前の世界を、ということで、描きました。
やはりこういう場合でも、「時代考証」と、「現地確認」は大事です。

しかしまさか石器時代にタイムスリップするとは・・・・。

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2016-03-02 | Blog

お知らせ・並びに活動状況の報告

昨年末の、レディ・フォーにおけるプロジェクトにご支援をして下さった
皆さま、お待たせしてしまっておりますが、リターンの品物は、
(展示作品のポストカードは出来上がり次第となってしまいますが)
4月中までには順次、お届けしてゆく予定ですので、
その旨、ご報告致します。

最近の活動状況は、県立公文書館や博物館に足を運んだり、と
資料探しをしたり、断続的に聞き描きも続けています。

農業や漁業など基本的な暮らし、というものは、島のものごとであっても、
沖縄全体で共通している部分が多く、先日お会いしたある先生が
おっしゃっていたのですが、
どこか一か所だけ突出して別の道を進んでゆくことはありえない。
そういった物事は基本的には全体的に同時に発達してゆくものである。
という性質のもので、このことが、沖縄のいろんな地域の古写真を
見てゆくにつれ、なるほどなあ・・・と改めてそう感じているところです。

いずれにせよ、この部分はこの部分で、まとめあげていこうと
考えています。

一方で、この地域特有のものもあるわけで、その部分をどうにか
カタチにしてゆきたい、と動いていますが、いかんせん、戦前の
暮らしをリアルタイムで知る方は本当に限られてきており、
できるかぎりのことはやろう、といった心境です。
しかし、できるんじゃないか?という妙な確信もあります。
これは写真にはない。しかし、手がかりは島にある。
そのために、島を歩く。

段々と、話のみでは難しいところも出てきており、写真を見てもらって
話を聞くようにしています。最近はもう、話を聞き出そうとしない、メモも
殆どとらない。そのかわり、全身で話を聞く。

戦前のカツオ漁の様子を話して聞かせてもらう機会が過去何度もあったが
やはりこの段階までくると、絵にするには、特に細部は話だけでは本当に難しい。
そこで僕は、戦前のカツオ漁あるいはカツオ船の写真を探し、
結局、公文書館で与那国島で撮影されたものを見つけて
複写させてもらい、島に戻ってその方に見てもらうと、
とおー、こんなだ、こんなだ、となったわけです。

僕としては、写真は、限られたアングルから、全体像を導きだす
重要な手がかりとなります。

いまのところの、いちばんの成功例は、戦前の、赤瓦ぶきの学校を絵に
復元できたことでしょうか。
これは校舎の右半分が写っている写真を元に、残りの左半分を
話を聞くことによって全体像を浮かびあがらせることができました。

話をして下さった方がもともと大工の仕事もしていた、というのも
あるのでしょうか、とにかく、この方がいなかったら
全体像を掴むのは不可能だったでしょう。
早く本作品に臨みたいところです。

等々、こういった類のことを少しずつ進めているところです。

2016-03-01 | Blog

まずは描き切った

やっとこさ先月27日に、展示会に向けての第一作目が出来上がりました。
画像を公開しようか否か思案しましたが、これはフライヤーに
使用するので、それができたのち、公開することにしました。
とりあえず今は布にくるまれています。

現段階で言えることは、通りゆく島の方々が、いいねぇ・・・と
立ち止っていかれたことです。

これがなによりのOKサインです。
そしてまた、なによりの喜びでもあります。

まずはご報告までに。

 

2016-02-22 | Blog

すべてはひかりからはじまる(進捗状況その3)

旧正月などを挟み断続的にコツコツと、三角や点を描いて
きましたが、やっと海の部分が終わりました。
進捗具合は6割ほどでしょうか。
なぜ、自分はこうも執拗といえるほどに、海のキラキラ輝く様を
表現しようとしているのか。

僕は展示会に向けてまず最初に、「光り輝く久高島」を描こうと考えました。
その輝きの下に人々の暮らしがあるわけであって、
まずはひかりがさんさんと降り注ぐ様を、描こうと考えたのです。
作業を進めるうちに、僕は、6年前に書いた
自身の手記を思い出しました。
以前、少し触れましたが僕は住むとこを失ってこの島に
やってきました。先の見えないキャンプ生活のなか、僕は
自身の状況を踏まえ、持っていた手帳にこう記しました。

「懸案事項はいまだもって懸案事項のまま。
しかしながらこのせかいは、なんと素晴らしい輝きにみちて
いることでしょう。」

この海がキラキラしている様子は、それこそ当時描こうと
試みたのですが、技術も完成も足りなかったのでしょう。
結局うまくいかず、自分の内にお蔵入りとなっていた題材でもあります。
それが巡り巡って、いつのまにか自分なりに描けるように
なっていて不思議でもありまた時間の積み重ねを感じるところでも
あります。

いまだって、大なり小なり、懸案事項はやっぱり懸案事項として僕の傍らにある。
しかしながらまずは、光り輝く世界を描き切ってやろう。
なにはともあれ、まずはそこからだ。

そんな思いも一方で、湧き上がってくるのです。

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2016-01-31 | Blog

展示会に向けての進捗状況(その2)

海がきらきらと太陽の光を反射している様子を描いています。
並行して別の絵も取り掛かろうかというところです。

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2016-01-26 | Blog

またひとつ島の大きな財産が天に召されていった

もう3年ほど前になろうか、当時、島内のNPO法人との話で
島の地図をつくろう、という話になりました。

そこで僕は、通り一遍の観光マップではなく、古くからある地名を
載せた、どちらかというと民俗学的資料に資するものが作れないか、
という想いが沸き起こり、そのことを強く主張しました。どういうわけか
その想いが通り(とにかく熱い想いに押し切られたのかもしれませんが・・・)、
僕は島に残る地名の聞き取り調査をはじめました。

僕にはひとつ、気になる箇所がありました。毎年、久高小中学校の
夏休み前のイベントで、サンゴ礁の浅瀬で集団で追い込み漁が
行われるのですが、この漁をやる場所(海域、といいますか)を
マッカタと呼ばれていました。そのことは以前から知ってはいたのですが、
もしかしたらこのほかにも「海の地名」なるものが
存在するのかもしれない・・・・。
といった思いがむくむくと芽生えてきました。

僕は久高島の航空写真をもとに絵を描いて、地名の調査に臨んでいたのですが、
試しにあるとき、島の物識りの方にその絵を見せて、ほかにも海の地名があるか
聞いてみると、ここは何々!ここは何々!と始まったわけです。それで
おじいたちにも聞いてみなさい、となりました。

ここからが雲をつかむような「海の地名」の旅が始まったのです。
なんといっても、そういったことに関する資料がまるで無い。
あるのはおじい達の記憶と、眼前に広がる広大なサンゴ礁の浅瀬、いわゆ
「イノー」のみ。

この聞き取りの旅の様子を書くと相当に長い文章になるので、またの機会に
致しますが、端的に言いますと、おじい達をしても、既に使われなくなった名を
想い出すのに頭をひねらすときもあり、のどに手をあてて、「ここまで出かかって
いるんだがな~」となったり、であるから60代の先輩方はいわずもがな、判るのは
80代の方が殆ど、であるなかでのこの状況。
あるおじいとあるおじいの、地名と指し示すポイントが逆であったときは本当に、
気が遠くなりました。

そうこうしながら僕は、とある一人のおじいに辿り着きました。
その方は海に生きた方で、当時は既に引退されていて、天気のよい日は椅子付き
車輪付きの歩行器で戸外に現れては、その椅子に腰かけ、悠々とされていました。
僕はそれまで接点は無かったのですが、思い切っていろいろ聞いてみると、
快く、実に悠長に、いろいろと僕に話をしてくれました。
そして必ず、僕にこう言いました。

「現場には行ってきたのか?」

このときだけは往時をおもわせる力強い視線を僕に投げかけました。

で僕が、
「はい、行ってきました、〇〇浜の先から潮が入ってくるのを
確認してきました。」と答えると、

「とぉー、そうだ、そこが〇〇(地名)だ。」
とおっしゃるのでした。

重ね重ね礼を言うと、そんなことで礼をすることはないんだよ、
遠慮しないで聞きに来なさい、と笑顔で答えてくれました。

結局、おじいは久高の海の地名を、本人もおっしゃっていたが、
全部覚えていて、地名の最終確認、という最も大事なところを
結果的にしていただいたことになり、この方がいなければ、地図は
完成にいたらしめることはできなかった、といっても過言ではないのです。

そんなこんなの、1年半に及ぶ地名の聞き取りを経て、久高島の地図は
世に出されたわけですが、ぼくはひとつの宿題を残してしまったのです。
それは、久高島の近くにある無人島、コマカ島周辺、の海の地名の
聞き取りまでには及ばなかったのです。
これを、いつかまた聞きにいこう、いつかまた聞きにいこう、と思いながら
日々の忙殺に甘んじ、月日は流れ、もういいかげん動こう!
と思っていた矢先、おじいは病に倒れ本島の病院に搬送されてしまいました。

それが数カ月前の話。そして、このたびの記録的な冷え込みのなか、
ついに、ひかりのくにへ還っていったのでした。

島の生活をしてゆく中で、おじいとの接点はそんなにはありませんでしたが、
僕の中ではとても大きな存在でした。
ありがとうございました。
今、浮かぶのはこの言葉ばかりです。

そして僕は、やりのこした宿題を、いよいよやりとげようと決意したのです。

 

 

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