優雅であるということ
久高に来た当初は、浜辺でテントを張って暮らしていた。
だからといってべつに自由気ままな旅をしていたわけではない。
沖縄本島で暮らしていたのだが、一身上の都合で住む場所を失っただけである。
ある日、テントの傍らに三脚を立て、さえぎるものも何もない真夏の太陽の下、
一心に絵を描いていると、一人の男性が、私の様子を見にやってきた。
本島で会社を経営されているというその方は、私を見るなり、
ひとこと、こうつぶやいた。
「優雅だねえ・・・・。」
住むところがなくなって、車もなにも手放して、着の身着のままの姿。
そして3か月後に控えた展示会にすべてを賭けなければならない
状況であった私は、つい、その言葉に噛みついてしまった。
私は両の手を広げ、
「これのどこが優雅だというんですか!」と強い口調で問い返した。
するとその方は、微塵も動じることなく、静かな口調で僕にこう答えた。
「優雅だよ。」
そして少しの間をおいてから、私がきょとんとしているのを察知したのだろう、
噛んで含めるように、改めてこう言ったのだ。
「自然の流れにそって生きること、すまわち優雅である。
そういう意味において君は優雅だ。」
そんな邂逅のあった後も、
私は毎日毎日、この浜辺から、日中行き来する定期船を眺めていた。
なかでもフェリーは私をこの島に運んだ特別な存在だ。
朝9時便の汽笛と
夕方6時、最終便が戻ってきた際の汽笛は、もはや
私自身の始業と終業の合図となりつつある。
べた凪のときは悠々と、うねりがあれば船体もうねり、
波が立てば舳先を上下させながら前進する
その様を見続けているうちに、私の中にこんな言葉がうかんだのだ。
「フェリーとは、なんと優雅な乗り物なんだろう・・・。」
そして私は描き終えたはずのキャンバスの左下に、その雄姿を描き入れたのである。