またひとつ島の大きな財産が天に召されていった
もう3年ほど前になろうか、当時、島内のNPO法人との話で
島の地図をつくろう、という話になりました。
そこで僕は、通り一遍の観光マップではなく、古くからある地名を
載せた、どちらかというと民俗学的資料に資するものが作れないか、
という想いが沸き起こり、そのことを強く主張しました。どういうわけか
その想いが通り(とにかく熱い想いに押し切られたのかもしれませんが・・・)、
僕は島に残る地名の聞き取り調査をはじめました。
僕にはひとつ、気になる箇所がありました。毎年、久高小中学校の
夏休み前のイベントで、サンゴ礁の浅瀬で集団で追い込み漁が
行われるのですが、この漁をやる場所(海域、といいますか)を
マッカタと呼ばれていました。そのことは以前から知ってはいたのですが、
もしかしたらこのほかにも「海の地名」なるものが
存在するのかもしれない・・・・。
といった思いがむくむくと芽生えてきました。
僕は久高島の航空写真をもとに絵を描いて、地名の調査に臨んでいたのですが、
試しにあるとき、島の物識りの方にその絵を見せて、ほかにも海の地名があるか
聞いてみると、ここは何々!ここは何々!と始まったわけです。それで
おじいたちにも聞いてみなさい、となりました。
ここからが雲をつかむような「海の地名」の旅が始まったのです。
なんといっても、そういったことに関する資料がまるで無い。
あるのはおじい達の記憶と、眼前に広がる広大なサンゴ礁の浅瀬、いわゆ
「イノー」のみ。
この聞き取りの旅の様子を書くと相当に長い文章になるので、またの機会に
致しますが、端的に言いますと、おじい達をしても、既に使われなくなった名を
想い出すのに頭をひねらすときもあり、のどに手をあてて、「ここまで出かかって
いるんだがな~」となったり、であるから60代の先輩方はいわずもがな、判るのは
80代の方が殆ど、であるなかでのこの状況。
あるおじいとあるおじいの、地名と指し示すポイントが逆であったときは本当に、
気が遠くなりました。
そうこうしながら僕は、とある一人のおじいに辿り着きました。
その方は海に生きた方で、当時は既に引退されていて、天気のよい日は椅子付き
車輪付きの歩行器で戸外に現れては、その椅子に腰かけ、悠々とされていました。
僕はそれまで接点は無かったのですが、思い切っていろいろ聞いてみると、
快く、実に悠長に、いろいろと僕に話をしてくれました。
そして必ず、僕にこう言いました。
「現場には行ってきたのか?」
このときだけは往時をおもわせる力強い視線を僕に投げかけました。
で僕が、
「はい、行ってきました、〇〇浜の先から潮が入ってくるのを
確認してきました。」と答えると、
「とぉー、そうだ、そこが〇〇(地名)だ。」
とおっしゃるのでした。
重ね重ね礼を言うと、そんなことで礼をすることはないんだよ、
遠慮しないで聞きに来なさい、と笑顔で答えてくれました。
結局、おじいは久高の海の地名を、本人もおっしゃっていたが、
全部覚えていて、地名の最終確認、という最も大事なところを
結果的にしていただいたことになり、この方がいなければ、地図は
完成にいたらしめることはできなかった、といっても過言ではないのです。
そんなこんなの、1年半に及ぶ地名の聞き取りを経て、久高島の地図は
世に出されたわけですが、ぼくはひとつの宿題を残してしまったのです。
それは、久高島の近くにある無人島、コマカ島周辺、の海の地名の
聞き取りまでには及ばなかったのです。
これを、いつかまた聞きにいこう、いつかまた聞きにいこう、と思いながら
日々の忙殺に甘んじ、月日は流れ、もういいかげん動こう!
と思っていた矢先、おじいは病に倒れ本島の病院に搬送されてしまいました。
それが数カ月前の話。そして、このたびの記録的な冷え込みのなか、
ついに、ひかりのくにへ還っていったのでした。
島の生活をしてゆく中で、おじいとの接点はそんなにはありませんでしたが、
僕の中ではとても大きな存在でした。
ありがとうございました。
今、浮かぶのはこの言葉ばかりです。
そして僕は、やりのこした宿題を、いよいよやりとげようと決意したのです。