消えかかった灯を前にして、
まがりなりにも表現する手段を
持った人間が、いったいなにを
なすべきか。
ポンポン船の、いわゆる焼き玉エンジンを、
実際に操作して文字通りのエンジン音に
包まれた経験のある人々の前で、もういちど
始動させ、あの弾ける音を鳴り響かせたい。
甍もたかくそびえ立つ、と今でも校歌で
歌われる戦前の赤瓦の校舎を、図面に起こして
ある。校舎の半分が写されている写真を
もとに、実際にこの学校に通い、元大工であった
方に造りや間取りを、「思い出してもらった」
のである。
その流れで校舎の後ろに立つ漁業組合の建物でも
あり共同売店でもあり、銭湯(のようなもの)でも
あった一棟も、これもまた図面に起こしている。
あとは模型作りに着手するばかりで、はや2年
が経過している。
ハリガーユーハーという行事が
旧盆の最後の日に行われていた。
和風に言えば無縁仏を祓うもので、
現在はおこなわれていない。
神人の方々が、ほーいほーいとの掛け声
とともに両手に持ったススキの葉で
悪いものを追い払ってゆく。
おばあは子供の頃、屋号ハトゥーフクジの
豪勢な石垣の角で自分らも祓ってもらおうと
わくわくしながら待っていたそうな。
この日は左ないの縄とハナピグーグーの
葉をあわせたものを(魔除けのゲーンのような
意味合いで)、屋敷の、石垣のあちこちに置いた
ということだ。
そのモノの名称はなにかと聞くと、ピジャイ(左)
ナー(縄)、で通るよ、とのこと。
今後やるべきはその方言名の植物の和名を
突き止めることと、その、ピジャイナーそのものを
実際に作ることだ。
先の大戦で失われてしまった模様のある神衣装、
その模様をなんとか復元できないかとすこしずつ、
若かりしころの記憶を辿っている。
旧フェリーは個人的な思い入れがあってのことも
あるが、大きな構想があって、
まず、初代定期船の新宝丸とそれと同じくして新琉丸
を中心にクリ船、サバニ、マーラン船、進貢船も
同じ縮尺で精密な模型を作り一堂に並べてみたい。
進貢船は・・・乗ったことのある人は現在いるはずも
ないのだが、かつて島の男性たちはすべてこの
船の乗組員であり、のちに船頭も輩出しており、
歴史的事実であるとともにオマージュでもある。
イラブーを捕るための、特殊な道具と実際に使う
漁場はどこであったか。
八重山での久高人の活躍ぶり、
あるいは奄美大島、トカラ列島、
台湾、南洋パラオ・・・
資料の購入のための試行錯誤。
等々、一つ一つ上げゆけば紙面がいくつあっても
足りない。
要するに、かつてこの島の人間が、どのように生まれ、
何を食べ、どんなものを身に着け、どんな造りの
家に住み、どのように成長し、あるいは結婚をし子孫を残し、
年老いて去っていったのか、そのことがらのすべてを
あまさずに、
目に見えて触れられるような形で現出せしめたい。
この先、5年10年15年かけて作り上げ民俗資料館なる
ものを設立する、それは、可能だろう。
それは是非とも実現したい物事である、が、いちばんの核は、
当時を生きた人々のまえにそれらを現出させることである
ということだ。
そういう意味において、これは芸術である。
民俗学的にどうかとか、あるいは文化人類学的に
どうとかは、副産物であるといえる。それは
それで大事なことであり大変に社会的意義の
あることである。蛇足ながらここでいう芸術との
位置関係においてそう言っているのであって
決して上位下位を言っているわけではない。
その、芸術活動を続けてゆくのには
もはや一人の力では及ばないところ
まで来てしまっている。
旧フェリーの船体は、アルミと鉄でできている。
そしてアルミの部分と鉄の部分はハイテン鋼と
いう特殊素材でつながれている。
板金の専門書も買った。しかし、他でやってもらえる
ならば、やってもらいたい。
民具を復元したい。本島に目を向ければ
竹細工は、できる人が沢山いる。マーラン船を
作る船大工だって、居る。
模様は、どうやらシャリンバイで染めて作った
ようだ。染ができる人も本島に目を向ければ・・・。
同じ目線で共感してもらえる同士仲間と、
そうした方々に依頼できるだけの潤沢な資金。
私にはそれが必要だ。
私は、縄もなえる。草鞋も作れる。
校舎の模型もやろうと思えば出来る。
が、それは他のひとでも出来る。
そう考えて、私にしかできないこと
とはなんぞや、と考えたがそれは
お年寄りがたの話を聞くこと。
それに尽きる。これだけは、
住んでる者でなければ出来ない
なにごとかがある。
であるから、自分は、この
壮大な構想のなかにあって、
ときには資料や写真や、現物
を交えて話を聞いて、まとめる。
これに徹したい。
そして、絵を描くこと。
言い忘れていた。
当時を知る人に、当時のものを
持って行ったとき、その人の目が
輝くんだ。真の芸術である。
願わくば同士仲間でもって、その輝きを、共有したい。
そしてその瞳の輝きはすなわち、即、文化の
継承となるのです。
たかいたかい高みから、今日も
太陽は、あまねくを照らす。
地上も海も、蒸気の塊であるところの雲も、
それらを構成する粒子の一粒一粒が
あまねく照らされて、光に満ちみちて、
柔らかな輝きを纏う。
立ち止まればほら、
あなたの髪の先、あなたの顔、からだ、両の手の指先、
足先まで、光に満ちみちている。
机や椅子も、自転車も、樹木や往来の人々、
犬も猫も花も鳥もオオゴマダラも・・・・
寝しなにノートに書いた文はここで終わっている。
ひかりそのものを描く、ということに腐心していた。
ご周知のとおりひかりというものは、無色透明、目には
見えない。それを描こうというのだから、はてどのように
したらよいのだろうか?考え感じ続ける日々を送っていた
ように思う。
月をも照らす太陽は、あまねくを照らし、世界を統べる。
いうなれば太陽は、あまねくを総攬する存在である。
ひかりというものはそこから発せられるわけだが、もう一方、
その存在、現象とも言えようか、そのものの放つひかりと
いうものもあるわけで、それは太陽光を反射して、という
物理的な物言いではくくることはできない。いうなれば生命の
輝き、ということになるのだろう。
目に見えるすべてが柔らかい光に包まれているように感じる
ことは、ある。
要するにそれを絵と文で表現することに今、取り組んでいる。
最近手にしたとあるエッセイ集のなかに、仏教の宗派の
ひとつであるところの華厳宗についての記述があり、
難解な文章であるが、そうそう、そうなんだよ、と共感の
沸き起こる、簡単と難解がいっしょくたになったような文
を何度も読み返している。よくもまあ、華厳宗のよりどころの
華厳思想というひとつの思想を、見開き1ページ程の分量で、
端的に、その人の言葉で言い表したものだと舌を巻く思いで、
読み返している。端的であるがゆえに簡単であり難解だ。
こういう文章はからだ全体で読むにかぎる。
そのくだりを、そっくり引用させていただいて、こういう
ことなんですよ、というのはやろうと思えばできる。
がしかし、それは自分の言葉ではない。自身のこの
分野での語彙の少なさに愕然とさせられている。
今は、そうそう、そうなんだよ、と感じ入りながららもその
感じを自分の言葉で紡ぎだそうと腐心している。
教えるは学ぶの半ばとは言うが、教えるなぞなんとも
おこがましく人に語るにはまだまだ勉強が足りない。
話がそれてしまっているようだが、ここに
ひかりについて書かれているからが、こうして
俎上に上げているわけだ。
考えたり、感じたり、なにかをやり始めることは
誰でもできること。
考え抜き感じ抜いて、やってのけることが大事。
もうそろそろ、このへんでよいだろう。
そう心の中で呟いて、育ててきた
粟を根元から引き抜いた。
穂から刈り取らずそうするのは、後で全体を観察する
ためだからである。
完全には全体が黄色く色着いていない。黄色いのも
あれば、あおいのもある。収穫するにはまだ少し早い。
そんなことは素人の私でもわかる。
しかしながら台風は刻々と沖縄に向かってきている。
前回の台風は勢力もそれほどではなかったので
持ちこたえたが、おそらくは今回は無理であろう。
あと少し、あと少し、とやってきたがここまで
きてあと1日も2日も変わらん、台風の予報進路、
今後の勢力予測を勘案して昨日、収穫へと
踏み切ったのだ。
僕はこの歴史的瞬間をひとり静かに迎えていた。
想えば3年ほど前、「チミ(もちきび)はもちもち、アワは
サラサラしてた。」というおばあの一言から始まった。
これはもしかすると、もち種でなく、うるち種の
粟かもしれない、「おばあ、アワはもちねー?うるちねー?」と
聞き返すがおばあにモチだウルチだの観念がなく、わからん、という。
そんなだから他のおばあ達にもわかるはずがなく、ただ
サラサラという一言を頼りに、作られていたのはウルチの粟では?
という確信に近い憶測を抱き続ける日々を送っていた。
それからどれくらい後か思い出せないが、ある資料の中に
今、記憶と自身の言葉で述べさせてもらえば、「行事に使う用に
ウルチ粟を、食料としてモチ粟を、それぞれ栽培していた」
といった記述を発見し、そこで初めて確信に近い憶測は
文字通り「確信」へとなったわけである。よしでは種を取り寄せて
早速やってみよう、となったのだがところが、どういうわけか
「ウルチ粟」の種は市場に出回っていない(これも謎だが食品
としては流通している。もちろんのこと脱穀されているので種と
しては使用できない。)。
結局、紆余曲折を経て、研究所から手続きをして取り寄せる、
という、のっけからたいそうなものごとになってしまった。
郵送されて届いた種は約120粒。
栽培についての大変さはいちいちつぶさに書いていたら
キリが無いが、間違って刈られてしまったり、カタツムリとの
格闘、猫が若葉を食べる、虫が穂を食べる、台風は来る、
とにかく穂が黄色く色着くまで気の抜けない日々であった。
雑穀、というものはこんなに栽培が大変なものなのか・・・
本来はそんなはずではないと思うのだが。
様々考えたが、いまは以下の結論に行きついている。
途絶えていた期間が長いものはど復活させることの難易度が増す。
通りがかりのおばあが足を止めて、粟はねーこんなして、こんなして
と収穫から脱穀の話をしてくれる。それはいつ頃のはなしですか?と
聞くと、「戦前よお~、戦前!」。
大袈裟に言っても戦前ぶり、つまりは70数年ぶりに実を
みのらせ、このたび、どうにかこうにか収穫まで漕ぎつけた
のである。
歴史的、と形容しても差し支えないだろう、と僕は思っている。
眠りにつくまでのひと時は蝋燭の明かりで
過ごしている。
燭台は、いくつかの変遷を経てこれに落ち着いた。
缶切りで開けた猫缶。
安定感もあり、折り曲げた蓋が反射板になる
というスグレモノだ。単なる空き缶なのだけれども
あるもので何とかするという暮らしを凝縮したようで
わりと気に入っている。
その明かりを枕元に置いて、本を読んだり、ノートに
浮かんだ言葉やアイデアを書き留めたりしながら、
やがて眠りにつく。
さて眠るとなったとき、息を吹いて蝋燭の火を消す前に、
少しの間じっと炎を見つめる。
炎が残像に焼き付く。
火を消す。
目を閉じる。
目を閉じた中の炎の残像を見続ける。
そのうち残像(光と言ってもいい)が
何かのカタチに変化してくる。
具体的な、何か。
時には前もってイメージするものを
決めて目を閉じるときもある。
それらを眺めながら眠りの世界へと入って
ゆく。もちろん、カタチに至る前に熟睡、
ということもしばしばではあるが。
いつからか僕は、こうした眠りのつき方が
習慣になっている。なとなく、今回はこんな
ことを記してみた。
― 自分と向き合う、というのはとても勇気のいることです。それは
私だって同じこと ―
夕日も朝日もいっしょ~、と夕焼けの浜辺でケロリと言ってのけた人がいる。
ブルーベリージャムののったヨーグルトを、ぐるぐるぐるぐると
かき混ぜはじめ、薄紫のドロドロにして、「わ~、きっもちわる~い!」と
言ってからパクついて、「ん~!おいし~!」と食べ続ける人がいる。
録り溜めた、日本のドラマや韓流ドラマを倍速視聴で消化する人がいる。
毎日、自分の明日の占いを、スマホでチェックする人がいる。
40近くにもなって、
ミタイナ!、ムリ!、ヨクイワレル~!を連呼する人がいる。
「無」になりたい!と連呼する人がいる。無の意味を解ってて
そう言っているのだろうか・・・・。
成功した人の本を読んで、それとおんなじことをすれば、成功する。
との簡潔な成功論を述べる人がいる。
キラキラ輝いてそれはそれは素敵な、中身のない笑顔を
見せる人がいる。
何年も沖縄に住んでいて、オキナワに呼ばれてるのか~呼ばれて
いないのか~とふわふわと語る人がいる。
へのへのもへじを描いた風船が揺らいでいるような人がいる。
鈍くさくて察しのきかない人がいる。
僕はそういった場面に出くわすと、その痛々しい様に心がくじけそうになる。
軸が無い人がいる。
顔が無い人がいる。
つかみどころのない人がいる。
つかみどころのない人、というのは結局、自分が自分を
つかめていない。何故、つかめないかといえば
つまり、文字通り、つかむところが無いからだと思う。
要するに中身がないのだと思う。
紡ぎ出す言葉も、作り出すものにも、笑顔にも、
顔が、無い。
そして、つかみどころのない人というのは、往々にして
本人の自覚のあるなしに関係なく、人の心をつかんでくる。
だからそのような人は、さして繋がりのない男性から
猛烈なアタックを受け続けたり、あるいは束縛の強い
男性と一緒になったりする。心を鷲掴みされた
男性たちは、おそらく、迷宮の中を、輝く宝石が存在するとの
幻想を抱いて歩き続けているのだと思う。
僕は彼らに言ってあげたい。
そこには宝石は存在しないよ、と。
あなた方の輝きが迷路の壁に反射しただけだよ。
そんな彼女たちの頭の中を覗いてみると、
実にカオスで、思考で渦巻いていてさながら幾つもの
迷走台風が脳の中を右往左往している感がある。
どうしてそうなるかというと、軸が無いからである。
やがて、自己防衛のために―それは無意識にといってもよく―自分の顔を無くす。
感受性もあるであろう、喜怒哀楽もあるであろう。しかしながら、
あるのかないのかも、よくわからなくさせる言動をとる。
ときおりそれらを垣間見たとしても、ちぐはぐでどこか板についていない。
取って付けたようで真に響いてこない。
この種の人々は残念なことに、そんな自分をどうこうしようという
意識がない。さらに症状が悪いと、認識が無い。
そして総じて、頑固である。
いざ、本質を突かれると、かわすか、逃げるか、でもそれって~、と
デモデモ星人に変身する。あるいは、ヨクイワレル~!と反射的に
答えてくる。
ぼくはこういった女性たちに、声を大にして言いたい。
軸を持ってください。
顔を持ってください。
つかむところを持ってください。
うわっつらの中身のない笑顔でなく
ほんとうの笑顔を見せてください。
自分を直視して、もういちど、取り戻してください。
真の心の平安はそこからがしか得られない
のですから。
ひとは、ひとそれぞれ、それぞれであって、それでいい。
であるけれども、看過できないなにごとかを感じてさいなまれるときもある。
僕が、その人の人生を生きるわけでないし、その人の人生を肩代わりすることはできない。
ただ僕は、幸いにしてか、絵にしろ文章にしろ、
「表現」という手段を持っている。
こういった看過できない思いを
昇華して、純化させた「願い」のようなものがこの先、
ときには、出てくるものと、いまは思っている。
手記とインスタグラムからの転載といま打ち込んでいる文章から成る。
まあるいまるいお月様から一粒の雫が落ちてきた。
地上に落ちたその雫は、人間の姿となった。
「言葉」というものを覚え、「感情」というものを学び、
人間と同じものを食べるようになり、成長して、
美しい女性の姿となった。
あるとき、その美しさに思いを寄せるひとりの男が現れた。
男は、彼女と一生を添い遂げたい、という夢を持つように
なった。男は、懸命であった。
しかしながら、彼女とは真の意味で交わることは
できなかった。
彼女は、「月の雫」であった。
男は、「ニンゲン」であった。
男は、何度も落胆した。
彼女もまた、何度も傷ついた。
夢は、叶うことはなかった。
ひとつの絵が残った。
人間の姿をしたその存在は、いつか還るときを想い、
まるいお月様が現れるたびに夜空を見上げていた。
そしていつの日か、再び雫となり、月へと還ってゆくのだろう。
赤子の頃に親しんだ三毛猫が、柄を変えて
再び私の元に現れたように、
戦前の、那覇は東町市場近くの商店にかつて
暮らしていた九十過ぎのおばぁの元へ、
当時の、その商店が写る写真を
届けることができたように、
畑に数十年ぶりに、うるちあわが芽を出すように、
無数の星々が集まりあって大河となるように、
目に映る光景が、懐かしくて涙が出そうになるように、
まるい月から落ちてきた、一滴の月の雫と
地上で交差したように、
わたしたちは再び、巡り逢うことができる。
久しぶりに僕は、絵を描き上げた瞬間に奥底から
こみ上げてくるものを感じて涙が眼に滲んだ。
悲しいからではない。それだけ清々とした絵を
生み出した、あるいは現出せしめた、からであろう。
この絵のタイトルは、再会、である。
時期は遅いが粟を育てている。もし実れば島では
数十年ぶりの出来事となるのではなかろうかと思う。
これを実らせるにあたり執念めいたものを持っている。
世間を見渡せば、粟を栽培している地域なぞいくつも
あるのだろうが、着手して気付かされるのだが、
長らく途絶えていた場所でそれを成そうとすると
それなりの大変さのようなものがつきまとってくる。
だからここは先に言った執念というやつで突き抜けようと
しているところである。
先に植えた高黍はいまのところ順調に進んでいる。
話に聞く島の高黍は実がどっさりついて首を垂れていた
という。一昨年くらいから栽培を始めたが、どういうこと
でそうなるのか分からないが同じ房から種を蒔いたのが、
穂が箒を逆さに立てたように天に向かって開くものと
傘の握りの部分のようにグンと下に曲がるものとができる。
そしてその曲がった方をみておばあたちは、島の高黍だ!
と驚くのである。
さらに言えば、上に開くのと下にさがるのとは種類が違う、と。
そこで私が同じ種からできたから土地が肥えてるか痩せてるかで
変わってくるのでは?等、云々すると、キョトンと首を傾げて
こちらの言わんとしていることがまったく通じない。
とにかく固有種なのか何なのかそのあたりはよく分からない。
ちなみに上がっているのは方言で「アジャー」、下がっている
のは「マガヤー」という。マガヤーが上等、これから種は取りなさい
という一方でマガヤーがじょうとうだけどアジャーも上等サー、と。
だけど種類は別。じゃーもーわかった(よく分からないが)毎回毎回、
マガヤーから種を取って・・・を繰り返してゆけば島の気候風土も相まって
久高島の在来種になってゆくだろうよ!!ということで栽培を
続けている。
味噌を仕込んでいる。
味噌作りの話を聞きに行くと、「まず農協で麹を買って・・・」
と話だすので、いやいやいやそーじゃなくて!昔のやり方で!・・・
麹を起こすところからのやり方を聞いているわけであって・・・
当然のことながらレシピなるものは無いに等しくすべて塩梅である。
だからこそ余計に実際に作ってみる必要がある。必要、と書いたが
教わった通りにやって、合格をもらえる味噌ができなければ意味がない。
麹と豆の比率を聞こうものなら、「あんたが(味噌を)何合やるか分からんのに
(麹を)何合に(対して豆が)何合かなんて分からんよ!」となる。
そこで屈せずにまた別のとこで聞きにゆくと麹と豆は1対1という。
で実際にやってみる。やってみると豆は水に浸けて増えるんだな。そこでやっと
前者のおばあのもどかしさが分かったのだ。おばあは水で増えた豆と麹
が比率で言ったらどれくらいになるかを考えていた気分のようなものが
そこでやっと見えたのだ。
そんなこんなで途中経過を見てもらいつつ、進めている。
軒先にハリセンボン(アバサー)の皮を干している。
民具を復元するためである。
作りはシンプルで、これに木の枝を取り付けて食物
を吊り下げるのである。
皮は、いろいろ入手経路を考えたが結局自分でハリセンボン自体を
突いて獲ってきた。身はアバサー汁にして独居のおばあのところへ
持っていった。この民具の話をしてくれたおじいは先日、天に召されて
いった。願わくば現物を見せに行きたかった、もっと早くに着手していれば、
と思うが仕方がない。
思いを胸に、この民具を仕上げてゆく以外にない。
先日、和合の絵を描き上げた。
描き上げて、いまはその絵は一つの
意思を持って僕のもとから歩き出して
いるように思える。
この絵は那覇にある浮島ガーデンの
オーナーが購入されたので、遠からず
店内に飾られることとなるだろう。
この絵には様々な意味合いが込められて
いるように思う。和合の絵、として
描き続け仕上げまでに至ったが、その「和合」
という意味合いも、この絵の全体のなかの
一部分でしかない、と今は思っている。
ではそれをも包摂するもうひと段階上の概念とは
なんぞや?ということになると、いまだ
言語化できずにいる自分がいる。
このあたりはゆっくりと時間をかけて・・・
あるいは突然に口をついて出てくるものなのかも
しれない。
ただ思うに、話は逸れるようだが、
ニンゲンというものは創造をしているとき、
体が喜びを感じる生き物なのだということ
を実感した。創造、というと絵を描いたりなにか
オブジェを作ったり、という場面を思い浮かべる
だろうが僕は、本を読むことも米を炊くことも
誰かと会話することだって等しく創造であると捉えている。
人間よ、芸術家たれ。と僕はかつて言われた
ことがある。
話は逸れるようで実はこのあたりに
和合の上位概念のようなものが存在するのでは
と考えている。
「創造」について、モノを作り出す、ということ
に限って考えるならば、そぎ落として煎じ詰めて
ゆけばそれは「発見」と「応用」ということに
なってゆくのではないか。
人間というものが例えば元素を生み出したわけでは
ない。元素を発見し応用してのこんにちの暮らしが
あるように思う。
絵というものは、世の中を大きく包んでいるものや
あるいは点在するものを一つの画面のなかに具現化
しているだけのことであると思う。
それは麦を臼で挽いて麹を付着させるのと同質
であると言える。
だから、絵を、自分が生み出したんだ!という
意識はまったくない。謙遜して言っているわけではなく
どうもそのへんが本当のところのように思う。
すこし余談めいた流れになってしまったが、
ここらあたりにもまた「上位概念」に通ずるものが
あるような気がする。
とまあこういった具合でこの絵の今後の動静を
近寄ったり距離を置いたりしながら眺めてゆこうと
思う。
前々からうっすらと考えていたのだが、
ブログの更新日を決めてみようと思う。
さらに申し上げれば、紙に文章をしたためた
ものをここに転載してゆこうと思う。これも
以前から考えていたことだ。
と、いうことで毎月1日はブログの日・・・て
あらもうすぐじゃないか。
まずはやってみよう。