和合の絵について思うこと
先日、和合の絵を描き上げた。
描き上げて、いまはその絵は一つの
意思を持って僕のもとから歩き出して
いるように思える。
この絵は那覇にある浮島ガーデンの
オーナーが購入されたので、遠からず
店内に飾られることとなるだろう。
この絵には様々な意味合いが込められて
いるように思う。和合の絵、として
描き続け仕上げまでに至ったが、その「和合」
という意味合いも、この絵の全体のなかの
一部分でしかない、と今は思っている。
ではそれをも包摂するもうひと段階上の概念とは
なんぞや?ということになると、いまだ
言語化できずにいる自分がいる。
このあたりはゆっくりと時間をかけて・・・
あるいは突然に口をついて出てくるものなのかも
しれない。
ただ思うに、話は逸れるようだが、
ニンゲンというものは創造をしているとき、
体が喜びを感じる生き物なのだということ
を実感した。創造、というと絵を描いたりなにか
オブジェを作ったり、という場面を思い浮かべる
だろうが僕は、本を読むことも米を炊くことも
誰かと会話することだって等しく創造であると捉えている。
人間よ、芸術家たれ。と僕はかつて言われた
ことがある。
話は逸れるようで実はこのあたりに
和合の上位概念のようなものが存在するのでは
と考えている。
「創造」について、モノを作り出す、ということ
に限って考えるならば、そぎ落として煎じ詰めて
ゆけばそれは「発見」と「応用」ということに
なってゆくのではないか。
人間というものが例えば元素を生み出したわけでは
ない。元素を発見し応用してのこんにちの暮らしが
あるように思う。
絵というものは、世の中を大きく包んでいるものや
あるいは点在するものを一つの画面のなかに具現化
しているだけのことであると思う。
それは麦を臼で挽いて麹を付着させるのと同質
であると言える。
だから、絵を、自分が生み出したんだ!という
意識はまったくない。謙遜して言っているわけではなく
どうもそのへんが本当のところのように思う。
すこし余談めいた流れになってしまったが、
ここらあたりにもまた「上位概念」に通ずるものが
あるような気がする。
とまあこういった具合でこの絵の今後の動静を
近寄ったり距離を置いたりしながら眺めてゆこうと
思う。