情報というもの
僕は情報、というものは、自分の足で歩いて、自分の眼で見て、
耳で聞いて、自分の手で触て得たもの、それかほんとうの意味での
「情報」だと思うのです。
そこで得たものをもって物事を判断してゆく、さらに進めて物事を
知る、ということが大事だと思うのです。
半世紀以上前のことを、経験することは、タイムマシンが無い限り
経験することはできません。
しかし、今だったらかろうじてリアルタイムで過ごしてきた人たちの
話を、直に聞くことができる。まして、70年以上前、となると、
格段に難易度が跳ね上がる。しかし、今だったら、不可能な
ことではない。今だったら、限りなく第一次情報に近いものを
得ることができる。
そのことが、僕がある種の焦燥を帯びた使命感にかられ
聞き描きという行動に出ているゆえんでもあります。
例えば、味噌や豆腐の作り方を聞く。酢の作り方を聞く。
それは、TVやネットのニュースで取り上げられる事象と
比較したら、ささいなことかもしれません。
大根やニンジンは種を取って、翌年またそれらを
蒔いていたということ。
味噌は、現在スーパーで売られているものとは比べに
ならないほど、香りもよく、美味しかったということ。
3年寝かせたものはさらに良かったということ。
なにより、味噌を仕込むにあたっては、まずは麹
から作っていた、ということ。
豆腐にあっては、にがりではなく、海水を汲んできて
それをいわば凝固剤として使用したということ。
さらに言うなれば、それらの原料となるもの、
麦、大豆などは、連綿と島の畑で作られていた、
ということ。
そういった物事を、直にやってきた人たちから
直に聞くことができる。さらに突き進めて最終的には、
実際に自分でやってみる。最初はおばあ達に教わった
通りにはいかないかもしれない。最初からいきなり成功
はないだろう、それなりの試行錯誤はあるだろう。
そのつどまた、おばあ達に教えを乞うことになるだろう。
試行錯誤の末、たとえば、味噌が出来上がり、
おばあ達に味見をしてもらって、
「これこれ!」
となったときに、知識というものが体感を持った
智慧となり、すなわちそれこそが、出来上がるまでの
過程も含め、ほんとうの意味での「情報」というものではないだろうか。
絵に起こすだけでなく、できうるかぎり
その領域まで行き着きたい、と考えています。
ですから、僕のやっている活動は、ただ単に島のかつての
暮らしを記録して世に知らしめたい、というよりは、
この先、我々が生きてゆくうえでの大事なものごとを
勉強しているのです。
結果的に、記録に残し、後世に伝えてゆくことに
なるのですが。